『真夏の怪/骨董屋変』【1-2】


 思えば、暑さのあまり判断力が低下していたのだ。
 建物に一歩足を踏み入れた途端、空気がひんやりと冷たくなった。
 すっかり外気にのぼせていた蘇芳は、「やっぱり冷房はいいなぁ」と、シャツの胸元を手でパタパタさせながら店内を見て回る。
 店の外観もレトロモダンといった雰囲気だったが、商いの内容も和洋折衷である。良い具合に古き良き時代を留める品々が渾然と融合し、全体として何ともいえぬ趣を作り出していた。
 時代がかった家具や陶磁器、銀器、洋燈に置き時計。その他にも、装身具などの細々とした物が所狭しと並べられている。
 蘇芳の好みは、和物なら染め付け、洋物ならブルー&ホワイト。それに中国茶器が加わる。
 色々と手を出した挙げ句、今は割と分かりやすいところに落ち着いているのだが、中でも蕎麦猪口やティーボウルといった小さなカップに凝っているのだから、分かりやすいにも程がある。
 状態の良さそうな蕎麦猪口が幾つも並んでいたが、目下探しているのは、オールドノリタケのカップ&ソーサーだった。
 ナーサリー(子ども用)で、他にティーポットとシュガーポット、ミルクジャグがセットになっているのだが、揃いのうち一客を破損してしまったのだという。
 祖母だか曾祖母だかの代から受け継がれてきた物らしく、幼少期に親しんだ品ならば思い入れもひとしお深いのだろう。
 叶うものなら、自分の手で探し出したいと思う。
 彼の人の面影が脳裏に浮かび、蘇芳は思わず笑みを浮かべた。
 すぐにハッとして、ニヤけた口元を引き締め周囲を見渡すが、蘇芳の他に人のいる気配はまるでない。
 狭い店内である。他に客がいないのは入ってすぐに分かった。
 蘇芳のいる場所は十坪に満たない土間で、商売柄か、足元は板敷きに替えられている。
 壁面には天井近くまで家具や棚などがバランスよく配置され、その中や、段差で棚となった場所にも器や小物が整然と並べられていた。
 中央には人が通れるだけのスペースを空けて机が置かれ、その上もディスプレイに利用されている。
 狭いながらも工夫され、品数が多い割に見苦しさは感じられない。
 土間の向こうには上がり框に座敷が設えてあり、畳敷きのその場所にもやはり壁面に家具や骨董が並んでいたが、衝立てと机で帳場が区切られている。
 暖簾の掛かった座敷の奥は、居住スペースとなっているのだろう。
 看板建築は、一見すると洋風建築なのだが、それは正しく表面だけで、建物自体は木造であり伝統的な商家の造りである。
 店の奥には居間や台所といった生活空間が続き、二階以上は完全に私的な場所となるのが常であった。
 呼び鈴が鳴ったので、じきに店主なり店番なりが姿を現すと思っていたのだが、思えば一向にその気配がない。
 ただシンと静まり返っているばかりで、表の喧噪やら何やらといったものも聞こえてこない。
 時刻はといえば、ちょうど夕方の買い物時である。
 通りに面していて、しかも簡単な引き戸を入り口としているにも関わらず、この静けさは異常である。
 我知らず暑さで朦朧としていた蘇芳の頭に、漸く理性の二文字が甦ってくると、肌に纏わりつく冷気が突如として異質なものに変じて認識された。
 ザワリ、と厭な感じが背筋を撫で上げる。
 鈍いにも程があったが、明らかに悪寒である。
 どうやら、知らぬ間に何かの境界を越えてしまったらしい。
 これはもしかして失敗したかなと蘇芳がのんびり思ったその時、不意に女が現れた。
 「……何か、御用でしょうか」
 黒い紗の着物をさらりと着こなした、品のいい女性である。
 顎のラインで切り揃えられた髪は今どき珍しい漆黒で、揺れるとサラサラ音がしそうなほど艶やかだった。
 だが、薄く化粧した顔は蒼褪め、どこにも生気らしいものがみつけられない。
 端正なだけに、まるで良く出来た人形を前にしているかのようだった。
 「えぇ、ノリタケのティーカップを探しているのですが……。失礼ですが、こちらのご店主ですか?」
 微笑を浮かべて蘇芳が問う。
 たとえ何があろうとも、こればかりは習い性である。
 相手が女性ならば尚のこと、他人に笑顔で接するのが蘇芳という男だった。
 大概は、無邪気な笑みにつられて無意識に笑い返すか、その美貌に気づき頬を染めるといった反応をみせる。老若男女の別なく、それが常であった。
 だが、女は悲しげな様子で首を横に振るばかりである。
 「……いいえ」
 その時不意に、女の着物から何ともゆかしげな香の匂いがすることに蘇芳は気づいた。
 どこかで嗅いだ香りだと思う。
 だが、記憶を辿る間もなく思考は遮られる。
 女は上体を捻って蘇芳から顔を外すと、右手をスッと上に動かした。
 黒い着物を身に纏っているせいか、白い手はポウッと光を放ち、それだけ宙に浮かんでいるように見えた。
 そして座敷の奥を指差すと、女は静かに言った。
 「この屋の主人はあちらで……、亡くなっております」

 袂から、微かにチリンと鈴の音が聞こえた。