『真夏の怪/骨董屋変』【1】

『真夏の怪/骨董屋変』


 壱:熱夢の客人(まろうど)


 陽炎立つ街は、黄昏に消え行こうとしていた。
 灼熱に焦がれたアスファルトやビルたちが、籠った熱を放出しようと躍起になっている。
 しかし、淀んだ空気が覆いとなり、都会の熱は一向に天へと抜けない。
 まるで花弁の如く幾重にも立ち昇る熱気のベールが、散ることを知らぬ花のように咲き乱れ、街を熱夢に染めるばかりであった。
 夜ともなれば、乱反射する光は落ち着きを取り戻す。陽炎は消える。
 だがそれも見せ掛けのまやかし。
 陽炎の種は知らぬ間に人に宿り、熱を生み放ちながら貪欲に育ち、やがて再び大輪の花を咲かせる。
 熱の迷宮は、人々の熱望とは裏腹に益々肥大していくばかり。
 然して、イカロスの愚行は繰り返される。杞憂は何処かにて現実となる……。

 いつ安息が訪れるのか知る者はいない。連日の猛暑と、それに続く熱帯夜だった。




 暮れ行かんとする街を、一人の男が歩いていた。
 飄々とした暢気な足取りで、時折立ち止まっては何やら四角い箱のようなものを目前に構えている。
 正面にレンズがついていなければ、或いはそれがカメラだと気づく者もいないであろう。ちゃちな造りの、玩具のような代物だった。
 それは正しく男が最近手に入れた玩具で、彼はこの数日試し撮りがしたくて堪らないでいたのだ。
 とうとう誘惑に負け、灼熱の太陽をものともせず出掛けてきたのだが、もう陽も暮れようとしているのに暑さは少しも和らぐ気配がない。
 憂き世離れしたこの男も、流石に後悔といった言葉を身に染みて感じていた。
 男は、蘇芳(すおう)という。
 稀に見る美丈夫である。
 しかし、中身ときたら実にいい加減に出来ている。
 用がなければ出歩く者とていないこの暑い日に、わざわざ用事を拵えていそいそ出掛けるような酔狂人である。
 手にしているのは、1960年代初頭にチェコ・スロバキアで作られた、ブローニーカメラの『CORINA(コリーナ)』だ。
 コンディションチェックを兼ね街に連れ出したはいいが、当初の楽しみも、異常とも呼べる暑さによって最早苦行と化しつつある。
 元来、暑いのは苦手な質である。にも拘らず、蒸し風呂のような街をそぞろ歩いているのだから、それは当然の帰結と言える。
 それでも、惹かれるものがあるとついシャッターを切ってしまうので、なかなか区切りというものがつけられない。
 いつしか、谷中から言問通りを根津に向かい、上野公園に抜けようという散策コースの、その大半を歩いて来てしまっていた。
 汗みずくになりながらも、暮れ行く陽光が織り成す妙景には魅力を禁じ得ず、足は前へ前へと進む。
 傍目には、この暑さの中にあって一人飄々として涼し気なようにも見えるのだが、次第に、池があったら飛び込みたいという危険な衝動を抱くようになってきていた。
 根津で切り上げメトロに乗るか、それともここまで来たならばいっそ意地でも上野公園まで抜けてしまおうか。そんなことを考えていた時である。
 通りの向こうに、緑青の生じた銅板に縁取られ、正面に茶色いタイルを貼った小さな建物が目に入った。
 その平坦なファサードは、一見すると洋風建築のようである。
 「あぁ、この辺はまだ残ってるのか……」
 前面が硝子戸となった一階は、焦茶色の建具と緑青色の壁面とのコントラストがなんとも渋い風情を湛え、上に目を転じると、二階から貼り出されたタイルがレトロモダンといった雰囲気を醸し出している。
 これは所謂、昭和初期に多く建てられた所謂看板建築というもので、ならば三階建てに見える一番上の部分はマンサール屋根と呼ばれる物のはずだった。
 「全然屋根に見えないんだけど……。普通に三階建てにしか見えないのは、見方が悪いからなのかなぁ?」
 聞き齧りなのであまり正確なところも分からず、後で専門家に聞いてみようと、取り敢えずアングルを変えて何度かシャッターを切っておく。
 通りを渡って近づいてみると、そこはどうやら骨董店のようだった。
 入り口には、『琥珀』とだけ彫られた小さな木の看板が掲げられている。
 磨り硝子のせいかあまりよく中が見えないのだが、茶器なども扱っているようである。
 蘇芳の雑多な趣味の中には陶磁器の蒐集というのもあるのだが、今は訳あって知人のために探している品があった。
 自分の物は兎も角、念のためそれだけは有無を確かめずにいられないと、蘇芳は誘われるように引き戸に手を掛けた。
 鉄の呼び鈴が、音高くチリリンと鳴る。


 思えば、暑さのあまり判断力が低下していたのだ。
 建物に一歩足を踏み入れた途端、空気がひんやりと冷たくなった。
 すっかり外気にのぼせていた蘇芳は、「やっぱり冷房はいいなぁ」と、シャツの胸元を手でパタパタさせながら店内を見て回る。
 店の外観もレトロモダンといった雰囲気だったが、商いの内容も和洋折衷である。良い具合に古き良き時代を留める品々が渾然と融合し、全体として何ともいえぬ趣を作り出していた。
 時代がかった家具や陶磁器、銀器、洋燈に置き時計。その他にも、装身具などの細々とした物が所狭しと並べられている。
 蘇芳の好みは、和物なら染め付け、洋物ならブルー&ホワイト。それに中国茶器が加わる。
 色々と手を出した挙げ句、今は割と分かりやすいところに落ち着いているのだが、中でも蕎麦猪口やティーボウルといった小さなカップに凝っているのだから、分かりやすいにも程がある。
 状態の良さそうな蕎麦猪口が幾つも並んでいたが、目下探しているのは、オールドノリタケのカップ&ソーサーだった。
 ナーサリー(子ども用)で、他にティーポットとシュガーポット、ミルクジャグがセットになっているのだが、揃いのうち一客を破損してしまったのだという。
 祖母だか曾祖母だかの代から受け継がれてきた物らしく、幼少期に親しんだ品ならば思い入れもひとしお深いのだろう。
 叶うものなら、自分の手で探し出したいと思う。
 彼の人の面影が脳裏に浮かび、蘇芳は思わず笑みを浮かべた。
 すぐにハッとして、ニヤけた口元を引き締め周囲を見渡すが、蘇芳の他に人のいる気配はまるでない。
 狭い店内である。他に客がいないのは入ってすぐに分かった。
 蘇芳のいる場所は十坪に満たない土間で、商売柄か、足元は板敷きに替えられている。
 壁面には天井近くまで家具や棚などがバランスよく配置され、その中や、段差で棚となった場所にも器や小物が整然と並べられていた。
 中央には人が通れるだけのスペースを空けて机が置かれ、その上もディスプレイに利用されている。
 狭いながらも工夫され、品数が多い割に見苦しさは感じられない。
 土間の向こうには上がり框に座敷が設えてあり、畳敷きのその場所にもやはり壁面に家具や骨董が並んでいたが、衝立てと机で帳場が区切られている。
 暖簾の掛かった座敷の奥は、居住スペースとなっているのだろう。
 看板建築は、一見すると洋風建築なのだが、それは正しく表面だけで、建物自体は木造であり伝統的な商家の造りである。
 店の奥には居間や台所といった生活空間が続き、二階以上は完全に私的な場所となるのが常であった。
 呼び鈴が鳴ったので、じきに店主なり店番なりが姿を現すと思っていたのだが、思えば一向にその気配がない。
 ただシンと静まり返っているばかりで、表の喧噪やら何やらといったものも聞こえてこない。
 時刻はといえば、ちょうど夕方の買い物時である。
 通りに面していて、しかも簡単な引き戸を入り口としているにも関わらず、この静けさは異常である。
 我知らず暑さで朦朧としていた蘇芳の頭に、漸く理性の二文字が甦ってくると、肌に纏わりつく冷気が突如として異質なものに変じて認識された。
 ザワリ、と厭な感じが背筋を撫で上げる。
 鈍いにも程があったが、明らかに悪寒である。
 どうやら、知らぬ間に何かの境界を越えてしまったらしい。
 これはもしかして失敗したかなと蘇芳がのんびり思ったその時、不意に女が現れた。
 「……何か、御用でしょうか」
 黒い紗の着物をさらりと着こなした、品のいい女性である。
 顎のラインで切り揃えられた髪は今どき珍しい漆黒で、揺れるとサラサラ音がしそうなほど艶やかだった。
 だが、薄く化粧した顔は蒼褪め、どこにも生気らしいものがみつけられない。
 端正なだけに、まるで良く出来た人形を前にしているかのようだった。
 「えぇ、ノリタケのティーカップを探しているのですが……。失礼ですが、こちらのご店主ですか?」
 微笑を浮かべて蘇芳が問う。
 たとえ何があろうとも、こればかりは習い性である。
 相手が女性ならば尚のこと、他人に笑顔で接するのが蘇芳という男だった。
 大概は、無邪気な笑みにつられて無意識に笑い返すか、その美貌に気づき頬を染めるといった反応をみせる。老若男女の別なく、それが常であった。
 だが、女は悲しげな様子で首を横に振るばかりである。
 「……いいえ」
 その時不意に、女の着物から何ともゆかしげな香の匂いがすることに蘇芳は気づいた。
 どこかで嗅いだ香りだと思う。
 だが、記憶を辿る間もなく思考は遮られる。
 女は上体を捻って蘇芳から顔を外すと、右手をスッと上に動かした。
 黒い着物を身に纏っているせいか、白い手はポウッと光を放ち、それだけ宙に浮かんでいるように見えた。
 そして座敷の奥を指差すと、女は静かに言った。
 「この屋の主人はあちらで……、亡くなっております」

 袂から、微かにチリンと鈴の音が聞こえた。