『真夏の怪/骨董屋変』【3】
『真夏の怪/骨董屋変』参:夏の終わり 数日後。 その日は、朝から雨が降っていた。 雨の雫のひとつぶひとつぶが、熱を宥めるように慰めるように触れては落ち、触れては落ちして、地へと辿り着く。 天の恵みに洗われて、世界は人知れず静かに浄められて行く。 再び空に還るその時まで、水は万物の恵みとなり、また、過ぎれば嘆きともなる。 狂い始めた歯車は、まだ辛うじて外れてはいない……。 永遠の回帰によって鎮められた空気は、漸く人心地がつくほどとなった。 ささくれ立った人の心にも、雨は潤いを与えるようであった。 *
聖堂の中に一歩足を踏み入れると、雨音は遠く聞こえなくなった。 荘厳なミサ曲がパイプオルガンによって奏でられ、聖歌隊の少年たちが天使の声で歌っている。 身廊の中央通路(アイル)を進むと、信者席を挟んで両脇に列柱が連なり、頭上はアーチ状のヴォールト天井になっているのが分かる。 ロマネスク様式だろうか。立派な建物だった。 通路の先にある、内陣(サンクチュアリ)と呼ばれる場所には、ステンドグラスを背に主祭壇が見える。天使らしき像が二体、十字架像に向かって跪いていた。 内陣の手前両脇には、柱を背に側祭壇が設えてあり、向かって左手にイエス像、右手には幼子イエスを連れたマリア像が置かれ、少し高い位置から人々を見下ろしていた。 十字架像の両横には、背の高い燭台が三本ずつ、合わせて六つの蝋燭が灯されており、天使像もまた七枝の大燭台を手にしている。 主祭壇に近い位置にある赤い灯火は、聖体ランプであり、聖櫃内に聖体が納められていることを示す常明燈である。 何なのかは分からないが、「聖体」と呼ばれる某かの物がそこにはあるのだろう。 香が焚かれ、周囲には馥郁とした薫りが漂っていた。 生憎の天気ではあったが、側廊の壁面にあるステンドグラスの窓からも、鈍いながら柔らかな光が射し込んでいる。 だが、それだけでは光量が足りないのか、効果的に照明も灯されていた。 信者がベテルと呼び神の家と言う、この空間は、まるで外界から切り取られたかのように存在していると、蘇芳(すおう)は思う。 単に、馴染みがないからかもしれない。 救われぬことを知っている身としては、聖域と呼ばれる場所は、悉く居心地が悪かった。 参列者の姿は疎らである。 だが、思っていたほど寂しくもなかった。 そこかしこに光の粒が、きらきらと漂っている。 入り口に近い、やや後部の信者席に、結己(ゆうき)はいた。地味なスーツ姿は、普段と何ら変わるところがない。 「ちょうど始まったばかりですよ」 足音を立てていないというのに、結己は振り向きもせず、蘇芳の気配を察して声を掛けてきた。 顔は正面を向いたままだ。 蘇芳は薄く微笑んで、結己の隣へ並び立つ。 「涼しくなったからね……」 我知らず、言い訳のような言葉を口にする。 気温など何も関係ないことは、二人とも承知していた。蘇芳は、こういった場が苦手なのだ。 「通夜もここだっけ?」 確か、電話でそう言っていた。 上の空で聞いていたが、覚えてはいる。だから場所も間違えずに来れたのだ。 「えぇ。ご家族もいらっしゃいませんし……。でも、遺言してくれていて良かったですよ。そうでなければ、お寺で葬儀をするところでした」 「カトリックとはねぇ。ちょっと意外だったかも?」 日本では、宗教の自由は法律によって守られている。 原則として、人がどんな宗教を信奉していようと構いはしないし、それは尊重されて然るべきものである。 だが、「なんとなく仏教」という意識が人々の中に存在しているのも、また事実であろう。 お宮参りや七五三は神社、結婚式は教会、そして葬式は寺。日本人ほど、状況に応じて宗教を使い分ける民族もいない。 「そうですね……。ご近所の方も、誰も、朝凪(あさなぎ)さんがクリスチャンだとは知らなかったのですよ」 聖歌が終わり、列席者は皆着席する。 司祭による聖書の朗読と、祈祷とが続けられる。高く朗々とした声が聖堂内に響き渡った。 主祭壇の前には、花で飾られた棺がある。 そこに横たわっているのは、朝凪という老人だ。 生の喜びも苦しみも終わりを告げ、帰天するのだという。 父なる神の座す場所。天国。 彼は、そこへ行くことを選んだのだ。 「あの花は、巳結(みゆう)が誂えたんですよ」 棺に目を投じたままの蘇芳に、結己がそう言った。 言われて初めて、目が離せない理由に思い至る。 違和感だ。 花束は、白を基調としているが、差し色に使われているのはピンクである。 その色の持つ穏やかさ、華やかさは、寧ろ、結婚式に用意した花だと言われたほうが、余程すんなり受け入れられる気がした。 「みゅーちゃんが?」 彼女のしたことならば、何か意味があるのだろう。そう蘇芳は思った。 「えぇ。通夜の祈りにも出席していました」 「そうなの?」 珍しいこともあるものだ。 巳結は、人との関わりを避けて暮らしている。 「朝凪老とは懇意にしていたらしくて……。色々と助かりました」 「そう……」 ならば、彼女の眼鏡に適う人物だったということか。巳結は元来、人嫌いではない。 「アンティークを探していて、『琥珀』を訪れたのだそうです。それで、話をするうちに巳結が人形の衣装を作っていることを知って、朝凪老から仕事を頼まれ……。何着か、古い着物を人形用に仕立て直したと言っていました」 「それってもしかして、いちまさん?」 「……だそうです。売り物ではなくて、個人的な品だったそうですが」 「そう……」 市松人形は、基本的に「子ども」である。 子どもの遊び相手であると同時に、子どもそのものでもある。 そして、人形というものは、人の姿に似せた形代(かたしろ)である。我が子の災厄を代わって引き受ける、「器」たり得るものだ。 商品としてではなく、私的に大切にしていたならば、何か謂れのある品なのだろう。 巳結は、そこに何かを見出だしたのだろうか。 「一宮(いちみや)は、優秀な弁護士ではありますが、やはりこういうことは女性のほうが、スムーズに事を運ぶ術というものを心得ていますからね」 結己は、言葉を選んで話していた。 他人の耳もある。聞かれたくない事もある。 ならば黙っていればいいものだが、蘇芳に気遣っているのだろう。 話が聞けないならば、こんなところにいる意味はない。言外に、そう匂わせてしまっているのかもしれない。 「男が何人集まっても、女性一人に適わないことがあるからねぇ」 蘇芳も、話を合わせる。 本当に……。女性とは偉大だと蘇芳は思う。 男とはまた違った情を持ち、幼き少女であっても聖母の如き慈愛を示すことがある。 それに、巳結は楸(ひさぎ)一族なのだ。 結己が現れるまで、一族の当主候補だったこともある。鎮魂の技には長けている。 「そうですね……。町内会でも、弁護士の一宮より、巳結の存在のほうを有り難がっていた節がありますよ」 一宮が愚痴っていたのを思い出し、結己は苦笑する。 身寄りのない朝凪である。葬儀は老人会か町内会で執り行うか、また、無縁仏として葬らねばならないのかと、近所の人々がやきもきしていたところに弁護士が現れ、全て取り計らってくれたことに感謝していた。 だが、細かい気配りというものはやはり至らないようである。 「朝凪老について、皆さん心配されていましたからね。こうして葬儀を執り行うことが出来て良かったと言っていましたよ」 「万事解決?」 「そうですね……、大体は。古物は同業者が引き取ることになっていますし、私物の大部分は教会に寄付されます。幾つか、巳結に贈与される品があるようですし、僕は不動産の処理を一任されています」 結己は近代建築保存会のメンバーであり、朝凪も、会員に名を列ねることこそなかったが、会の活動内容などは結己を通じて知っていた。 だからといって、赤の他人にそんな大役を一任するとは思いがけず、結己も驚いている。 最善を尽くしたいとは思っているが、いつも理想通りに行えるとは限らない。それを知っているだけに、些か重荷でもあった。 「警察のほうは?」 「やはり、事件性はないとの見解です。監察医務院による行政解剖の結果では、朝凪老……朝凪氏は、熱中症による多臓器不全で亡くなったということです。ここ数日の暑さで、食欲も落ちていたのでしょうね。水分は摂っていたようなのですが……」 「確か、体調に不安があったんだよね? 弱っていたところに、この猛暑か。老人には厳しい環境だよね」 「そうですね。熱中症の怖いところは、感覚が麻痺するのが先なので、気がついた時には倒れていたり手遅れだったりするところです。暑さで、しかも屋内で死ぬなんて、昔はなかったのかもしれませんしね……」 年々、東京の亜熱帯化は深刻になり、熱中症による死者も増えている。 そして、高齢者の死亡数が圧倒的に多い。 若年層では、屋外作業やスポーツなどによる労作性の熱中症が多いが、高齢者に多いのは、熱波による古典的熱中症と呼ばれるものだ。 これは、屋内でただじっとしていても起こりうる。 高温となった室内にいて、知らぬ間に体温が上昇する。しかも汗はかかない。汗をかかないということは、体に籠った熱が外に出ていかないで蓄積されてしまうということだが、それに気づかない。 寧ろ、熱中症に陥った者は寒気を感じていたりする。 「……ちょっと待って。あそこには冷房があったでしょう? 結己だって使ってたくらいなのに」 「そのことなんですが……」 起立を促され、言葉が途切れる。 光が降るようなオルガンの音色で聖歌が奏でられ、聖歌隊のリードに合わせ、列席者が辿々しく歌う。 蘇芳は、黙って聞いていた。 結己は葬儀ミサの栞を手に、眉間に微か皺を寄せている。どうやら歌は苦手らしい。 唇を動かしてはいるが、音は聞こえない。 困った様子である。 蘇芳はそれを微笑ましく思う。神を讃える言葉を持つことは、幸いである。 この子らには幸せになって貰いたいと……、いつも、切に願っている。 長い尾を引いてオルガンが止み、また着席する。 「あの家に、クーラーなど無かったのですよ」 ぽつりと結己が呟く。 騒めきの残る蘇芳の耳に、その言葉は奇異に響いた。 「一台もね」 *
喪主の挨拶と献花を以って、葬儀ミサは恙無く終了した。 勿論、遺族などいない。弁護士の一宮が代表として、列席者に短く謝辞を述べるに留まった。 一宮は背の高い若い男で、弁護士でなければ代議士か政府の要人か、というような威圧感を全身に滲ませているのだが、結己によれば、どうも見掛け倒しらしい。 一見すると堅苦しく融通が利かないようだが、口を開けば、物腰が柔らかく、驚くほど人が善いのだそうである。 外見と内面のギャップが面白いのだと、可哀想な言われ様をしていた。 献花は、棺の上に薔薇の花片を散らすものだった。 これも巳結の発案なのであろう。美しさと儚さ、悲しさといったものが相俟って、その後、長く心に残る事となった。 棺を見送り、朝凪に別れを告げた。火葬場へは二人とも遠慮する。 結己に気づき、棺に寄り添った一宮が軽く会釈して見せた。 棺の上から零れ落ちる花片が、幻想的であった。 一宮たちの後ろを、小さな子どもがついて行くのが蘇芳には見えた。 その姿は人形のようであった。 教会の外に出ると、まだ少し雨が降っていた。 穏やかな雨だと蘇芳は思う。 何時の間にか、薄日も差している。 狐の嫁入りとは、少し違うだろうか。ただ、晴れてきたということだろうか。 葬儀だというのに、不思議な穏やかさを感じていた。 年若い者の早世は悲痛だが、老年にもなれば、死は安らぎであるかもしれない。 だからだろうか。 蘇芳にとって、死とはただ過ぎ行くものだ。 命が手から零れ落ちる。いつも、その虚しさばかりが心に残る……。 朝凪とは、生きて会う事はなかった。そのせいで、何の感慨も湧かないのだろうか。 結己によると、あの建物のどこにも、冷房設備は無かったそうである。 涼を得る機器といえば扇風機だけであり、部屋を冷やすほどの能力には欠ける。 だが、蘇芳も感じた通り、扇風機だけでは説明がつかぬほど、確かに建物内は冷えていたようだ。 その点では、検屍にも疑問が生じたようである。 筋肉の硬直や死斑などの状態から得られる情報と、腐敗の進行度には、明らかな齟齬がある。然し乍ら、人為的な細工などの証拠はどこにも発見されなかった。 近年、科学技術の発達は著しい。科学捜査で解明出来ないことはないように思える。 だがしかし、目に見えるものばかりが全てではない。数字や情報(データ)だけでは推し量れない物事も、確かにこの世には存在する。 ひとそれぞれ、目に見えるものも違う。 得てして、都合の悪いものは見えなかったこととして人の脳は処理する。その、「都合の悪い」ものの幅は、それぞれに違う。 蘇芳は、それをよく知っている。 教会の中で、二枚の写真を見せられた。 一枚は、和服を着た、清楚で凛とした若い女性。髪は結い上げている。 もう一枚は、市松人形だった。市松にしては、やや髪が短い。 どちらも同じ紗の着物を着て、どこか面ざしが似通っているようにも見える。小首を傾げている様子も同じだった。 それを見て、蘇芳は漸く合点がいった。 自分が遭ったのは、この女性であり、人形であったに違いないと。 幼子を生き写した人形は、彼女の望みを叶えるために器となって働いたのであろう。 同じ場所で生きられなかった者たちが、せめて死しては添い遂げようと、蘇芳や結己を利用したのだ。 鍵となるのはやはり巳結である。 巳結は彼らのロマンスを知っているのだろう。蘇芳はそう確信した。 言葉を持たぬ手向けの花が、しかし雄弁に物語っていた。 「そういえば、巳結に叱られてしまいましたよ」 傘立てから傘を取りながら、結己が言う。 「おや、珍しい。何をしたのさ?」 「……してないからです。いつまで小鳥に名付けないでいるつもりか、と」 「そうだねぇ」 何やら躊躇いがあるらしく、ずっと適当に呼んでいた。まぁ、良い事ではないだろう。 「えぇ、名のないままにしておくのは良くないと言われました」 「それで、決まったの?」 「……えぇ。もうずっと、それしかないと思っていましたから。『朱雀(すざく)』はどうだろうかと」 「ふぅん?」 朱に雀と書いて『朱雀』。 あの小鳥は顔が赤いし、南方が原産だという。朱雀は四神のひとつで、南を守護するものだ。 言われてみれば、似合うような気もする。 「いいんじゃないの?」 丈夫に、元気に育ちそうな名だ。 「えぇ……」 ハザードランプを点滅させ、タクシーが教会の門前に停車する。 結己が呼んだ車だ。 小雨に濡れるのを頓着しない蘇芳に、後ろから、結己が傘を差し向けつつ続く。 横に並ぶと、蘇芳のほうが少しだけ背が高い。 二人してタクシーに乗り込み、結己が運転手に行き先を告げる。 結己の部屋で、彼の恋人の沙那(さな)が、浄めの塩を用意して待っているのだという。 それもまた可笑しい話ではあるが、面白いのでついて行こうと思う蘇芳であった。 久し振りに沙那の顔も見たい。 彼女は聡く、可愛い子だ。蘇芳のお気に入りでもある。 無愛想な運転手は、無言で頷いて見せた。 発車する寸前に、何かが蘇芳の目の端に留まった。 人のようである。 振り返って見ると、相合い傘をした二人連れであった。 今どき珍しい和装姿で寄り添う男女は、骨董屋の主人と写真の女性に、どこか似てはいないか……。 こちらに会釈したようである。 【了】
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